本当の自分に還る奇跡の池
池っつったって、水なんか一滴も無い、深くてデカい穴、というか、殆ど崖っぷちみたいなところです。落ちたら普通に頭打って死にますよねー。
なのに、手すりがちゃっちくて、、、
東尋坊みたいな使われ方してないかって心配になって、「ちょっと待て、ハードディスクは消したかい」的な立て看板思わず探しちゃいました♡
でもこれ、遺跡としては「モノホン」ですからね。イエスの時代、いや、旧約の時代から残ってるやつですからね。エルサレムにいったら、絶対訪れてくださいね!
その前に、新約聖書のベテスダの池が出てくるくだりを振り返ってみましょうか。
新約って基礎知識無いとわかんないものが4割、旧約との紐づけが出来ないと分かんないものが6割だと個人的には思ってるんですが(日頃聖書読まないことの言い訳では…)、純粋に文学作品としてグッとくる所もたまにはあります。
イエスの時代、ここはまあ玉川温泉みたいなとこでした。水が波立った時にいの一番に飛び込むと病気が治るということで、多くの病人が寝ながらスタンバってました。イエスはここで38年間、当時の寿命を考えれば人生の殆どの間、病に苦しんでいた男を癒します。
んで、この時に交わされた会話、これが、泣けるんです(´;ω;`)
“イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」”
新約聖書 新共同訳 ヨハネによる福音書 5章6節~7節
※wikipedia「Bartolomé Esteban Murillo」より引用。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bartolom%C3%A9_Esteban_Murillo
良くなりたいか、って聞かれてんですよね。なら、yes/noで答えりゃいいんですよ。なのに、病で歩けないのに誰も私を池の中に…って状況説明と愚痴。yes/noを言わないんです。
というか、yes/noが言えないんです。
人は、余りに長い間叶わない望みについては、素直にyes/noが言えなくなるんですよね。叶わない望みを持ち続けることは、余りに辛いことですから。
じゃあその望み自体を忘れちゃえばいいのに、と思いますけど、でも、病、というのは忘れ去るには余りにも辛い現実。心身に重くのしかかって、忘れられないんです。
だから、「他の人が水に入れてくれない」「私より先に他の人が水に入る」とかなんとか、望みそのものをちょっとずらして、そこで悩むんですよね。誰かが気を利かして水に入れてくれる方が、38年ものの病が「良くなる」ことよりはハードルが低いですから。
まだしも希望が持てる所で…その望みが叶わなかったとしても心底絶望せずに済む所で、悩むんですよね。
本当は「良くなりたい」んですけどね。
聖書的には、この男の病気は自立が怖いからとか他人に依存してるとか上からな解釈がされることもあるようで。38年の病イコール深い絶望とか自尊心の欠如とかのメタファーと取れば、それはそれで間違ってはいないと思いますけど。
でも、正解は解釈垂れずにシンプルにこう言ったイエスの方だな、とは思いますね。
“イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」”
新約聖書 新共同訳 ヨハネによる福音書 5章8節
昔はキドロンの谷のそばにあるギボンの泉がベテスダの池じゃないかなんて説があったようですが、聖書には5つの回廊がついていた、とあります。ギボンの泉は別に五角形とかではないので、、、ベテスダの池は架空の代物と思われていたみたいです。
でも、19世紀に発見されちゃったんですよねー、現物が。この現物、五角形じゃなかったんです。四角形の水槽が2つ隣接していたんです。んで、周囲と仕切りが回廊で囲まれてたんです。
水槽はもともと1つしか無くて、貯水槽として使われてたようです。その後もう一つ追加されて旧約の時代までは羊洗うのに使われてたとか。
でも、イエスの時代はヘレニズム文化華やかなりし頃。ローマは文化的にもイスラエルを支配しようとしたのでしょう。ギリシャ神話に出てくるアスクレピオスという医学関係の神を祀った神殿として大幅リニューアルされたんです。
羊の洗濯場、新約の時代にはこんなんなってたみたいですよー。立派っすねー!
※wikipedia「ベトサダの池」より引用。Deror avi氏による撮影。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%82%B6%E3%82%BF%E3%81%AE%E6%B1%A0
この2つのプール、高低差がありますね。高い方は雨水を貯める貯水槽で、低い方に階段が付けて人が入れるようにしていました。で、時折この高い方から低い方へパイプで水を流し込むんで、水面が揺れますね。神殿側は、それを天使が渡っただのなんだのと吹いてたみたいです。
この病の男、れっきとしたユダヤ教徒なんですが、何故異教のアヤしいのんのんさんに頼ったのでしょうね。
足萎え、要は歩けない者と盲目の者は、神殿にお参りできなかったんです。彼らは、ユダヤ教的には呪われたものとされてました。
ここで、イエスの時代から1000年戻りましょう。
ダヴィデ王がダヴィデの町を攻略するときに、先住民のエブス人が、「お前なんか、めしいや足なえ(要は、弱者の代名詞でしょう)だって楽勝で追い出せるし」と憎まれ口を叩くんですね。
キレたダヴィデ王は、売り言葉に買い言葉で「俺は足なえもめしいもキライだ殺っちまえ(まあ、エブス人なら女子供も容赦しねえ、位の意味でしょう)」って、エブス人をボコボコにするわけです。
その時の言葉が巡り巡って、神殿には歩けない者と盲目の者は入ってはいけない、みたいなことになりまして。この病の男はユダヤ人としてのアイデンティティも奪われた状態だったんですよね。そりゃ、異教の神を頼るしかないですよね。
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