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執筆者の写真デボラ・デラックス

ヤルデニットpart2

ドブ川に鳩飛んできて新時代♪

※wikipedia「カスル・エル・ヤフド」より引用。 udi Steinwell Pikiwiki Israel 氏による撮影。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A4%E3%83%95%E3%83%89


ちなみにこちらが、「もっと南の方」にある「かの地」です( ゚∀゚)


正直、洗練された古代上下水道システムやキレイなエリシャの泉とか見てきたので、ヨハネは何故こんなドブ川をチョイスしたの?と疑問しきりです。でもまあ、ヨハネの洗礼って、立派な上下水道システムを使った水にありつけないような人々を対象としていたっちゃあ、していたんですよね。


この衛生的にもおもてなし的にも問題外なヨハネの洗礼、実は歴史的も宗教的にも結構重要なイベントなんです。


さて、ここからヨハネの功績をご説明しますね~♪


ヨハネは業界ではイエスの先駆け、なんて言われています。まあ、確かに彼の功績を要約するとそうなるのかなあ、と。


先駆けだけあって、絵画の世界ではイエスの功績を表す十字架の杖と子羊(要は、人類の罪を背負って犠牲になって死んでくれた、ということ)と一緒に描かれることが多いです。可愛いからムリリョのこの絵をご紹介♡

※wikipedia「Bartolomé Esteban Murillo」より引用。

https://commons.wikimedia.org/wiki/Bartolom%C3%A9_Esteban_Murillo?uselang=ja


ユダヤ教でも洗礼ありますけど、それは「お清め」的なニュアンスが強いです。クムラン遺跡でご紹介したクムラン教団みたいに一日に何度もじゃぶじゃぶすることも。一方、ヨハネの洗礼は一生に一度。一生に一度洗礼を受ければ、罪は赦されるとしたわけです。そこが画期的だったんです。


ところでこの「罪」って言葉、実に曖昧。境界線やレベル感がよく分かんないですけど(ex.浮気したのしないのの痴話喧嘩とかー)、一神教の考え方で言えば、罪とは「神の御心に背く」ことです。


神の御心に背くことが罪って言われても、困りますよね。神たいして御心オープンにしてないのに、、、


そうですねえ…。


一神教と多神教の違いってたくさんありますが、多神教は神を捨てられても一神教は神を捨てらんない、っていうのがあるかなーと。


日本は多神教の文化です。学問だったらナントカ天神、安産だったらふにゃらら菩薩、商売だったらどこそこ稲荷って感じで、気楽に神社仏閣を用途別にチョイスしますよね。で、落ちたり逆だったり赤字だったりしたら、「あーあそこ効かないわ」っつって今度は別のを探しますよね。


早い話が、「神のせい!」って責任転嫁&チェンジできるんです。あくまで極端な言い方ですが。


ところが、一神教、唯一絶対の神となるとそうも行きません。何か問題が起こったらそれは「私のせい」です。神は一つしかなくて、絶対に正しくて、絶対に捨てられないからです。私が悪いことした→神の御心に背いた→神が罰を下された、となるわけです。まあこれも極論ですけどね。


古代ユダヤ人にとって、最凶にショックな出来事の一つにバビロン捕囚があります。でも、旧約聖書の多くはこの最凶時代に編纂されるんです。


と、いいますのも、ユダヤ人的には自分達の国が滅ぼされてバビロンくんだりまで飛ばされる=何か人間側に罪があったに違いない、じゃあそれは何か明らかにして神に赦してもらえるよう対策立てなきゃ、ということになるからですね。


事実、この時代にはパレスチナ土着の「バアル神」という神が流行ってました。異教に走ったからヤハヴェは怒ったんだ、と、ユダヤ人は考えます。そして彼らは「出エジプト」のモーセの時代、ヤハヴェとの蜜月時代に立ち返ろうとします。


神との契約ってなんだっけ、ということを律法として明文化するんです。


でも、そうした人間と神とのつながりを保つための律法が、いつの間にか人が人を差別するための道具になってしまうんです。


理由は…想像に難くはありませんね。


時と共に社会的なルールは変わっていきます。ただ、この時代残念ながら政教分離、なんて考え方ありません。唯一絶対の神を擁する古代社会では、社会的なルールがテンポラリーのものではなく律法として絶対化されてしまうんです。


そしてそうなると、捨てるに捨てられないです。律法は必然的に肥大化します。そしてその膨大な律法を学んで理解して実践できるのは金持ちorエリートだけです。


律法を守り切れない一般庶民は罪の中に取り残されます。士業と判事と裁判官以外は皆罪人的な

(´・ω・`)


そこで、ヨハネ先生のご登場です。お金なくてもエリートじゃなくても神の前に心から悔い改めてたった一度の洗礼を受ければ救われますよ、としたわけです。


キリスト教の誕生まで、あと一歩です。


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