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執筆者の写真デボラ・デラックス

ヴィア・ドロローサpart3

来て見て寄って!シンデレラ城「姫」が待つ

ヴィア・ドロローサのもう一つの特徴は、めっちゃ道が分かりづらいことです。ジグザクでちょっと素人は歩き切れないです。


ユダヤ戦争後、エルサレムはアエリア・カピトリーナというローマ風の都市に作り変えられました。そんときの都市計画がちょっといけてなくて、それが祟っています。


ローマ風の都市は、通常南北にカルド、東西にデクマヌスっていう幹線道路を一本ずつずがーんと通すんです。ヴィア・ドロローサは鞭打ちの教会と聖墳墓教会を繋いでいるのですが、この二つの教会はデクマヌス沿いにあります。


本来であればまっすぐの道のはずなんですよ。


ところがエルサレムの場合、このデクマヌスがずがーんと行かなかったんです。理由は二つ。神殿の丘とカルドですね。


デカい神殿の丘は旧市街の南東側半分以上を塞ぐように建っています。デクマヌスをまっすぐ通すと神殿の丘にぶつかるんで、神殿の丘の北側に続きを作ったんです。それで非連続になっちゃったという。


ここで思いますよね。そんなことするんならデクマヌスそれ自体を思いっきり北側に作ればいいじゃん…と。でもできないんです。南北を通すカルド。これが、よろしくないんです。


エルサレムのカルドって、何故か西よりルートと東よりルートの2本あるんですよ。西よりはシオン門から、東よりは糞門からスタートしてて、で、この二本、旧市街北端にあるダマスカス門に集約されるんです。平行に通せばいいのに。





※wikipedia 「Via Dolorosa」より引用。Anthony on Stilts氏作成。

https://en.wikipedia.org/wiki/Via_Dolorosa


結果、東西のデクマヌスをあんまり北側に持ってきちゃうと、カルド2本とデクマヌスでちっちゃい三角形のデッドスペース作っちゃうんですよね。まあ、そんなかんなで結構ジグザクになったわけです。


ちなみに、アエリア・カピトリーナの時代にできた道路が、エッケ・ホモ教会の地下に残ってます。堅牢な石の道路、今でも全然使えそうですね。

エッケ・ホモ教会はピラトがイエスを指して「この人を見よ」と言ったとされる場所、もとい、ピラトの官邸があったとされるアントニア要塞跡にあると言われています。


キャッチの写真にあるように、十字架引きずったイエスの絵が描いてあっていかにも感出してますが、この道路自体はイエスの死後できたものですので念のため。


ちなみにこの地下には、イエスの時代の飼い葉おけなんてのも残っています。飼い葉おけイコール木感がありますが、めっちゃ、石…。


赤ん坊のイエスはこんな石の中に寝てたんかいと思うと感慨深いものがあります。藁敷いてもお尻冷えて、さぞかしむずがったでしょうね。

イエスの死後にできたアエリア・カピトリーナの都市計画に悪影響を受けている、という時点でおわかりでしょうが、ヴィア・ドロローサ、勿論考古学的にも曖昧です。


ヴィア・ドロローサの歴史はビザンチン時代から始まるみたいです。そう考えると十字架への道行きを偲ぶ、という風習それ自体は歴史あるもののようですね(ユダヤ教由来じゃなくてヨーロッパ由来だそうですが)。ただ、ルートは何回も変わってます。


ビザンチン時代のルートはオリーブ山からゲッセマネの園を通ってライオン門から聖墳墓教会に入ったそうで(長げえよ)。その後、8世紀頃はシオンの丘を通ってたこともあるようです(長げえっつの)。


ローマカトリック教会内で派閥争いが起きて、それぞれがそれぞれのルートを主張しだした、なんてこともあったよう。


その後14世紀になって、教皇クレメンス6世がフランシスコ会に巡礼者とカトリックの史跡を守るようお触れを出しまして、フランシスコ会は巡礼者の案内役を勤めるようになるんです。これがきっかけで、ヨーロッパ内にその存在が広く知られたみたいですね。


ヴィア・ドロローサにお参りした奴には免罪符くれてやる、なんてのもあったようですよ(^^;)

こんだけの史跡を守るには維持費もかかったでしょうからね。


そしてそのころに、今みたいな留も出来たようです。ここでシモンがイエスの代わりに十字架背負ったのよ、さあ祈りましょ、なんつって案内したんでしょうね。もっともこの留も何回も変わってまして、今の14留のパターンに落ち着いたのは19世紀頃とか。


こうやって書くといい加減なもんだと思いますが、このヴィア・ドロローサのおかげで様々な宗教が敵対する危険な環境の中でも、巡礼者が安全にエルサレム旅行を楽しめるようになったと思うと感慨深いものがあります。


と、言うより、ヴィア・ドロローサなるものをこさえた主要目的は、そこにあります。イスラム教徒が支配する土地の中で安全に巡礼してもらうこと、そして逆に、浮かれた巡礼者が酒飲んで暴れたりして、地元民と余計なトラブルを起こさないように監督すること、です。


フランシスコ会の坊さん達が、いかにして異教の地で自分らの聖地を守るか、いかにして実効支配⁉するか、知恵を絞りまくってヴィア・ドロローサが出来たと考えると、それはそれで感慨深いものがあります。


聖書と関係ない、伝承によるステーションがあることもうなずけますね。その時代に合わせて人気のある聖人なり伝承なりを取り上げたのかなあ、と。客寄せしなくちゃですし。


スピリチュアルなスポットとして考えると全く以てピンと来ないヴィア・ドロローサ、ツアリズムとかテーマパークの文脈で掘り下げて考えてみたいですね。ヴィア・ドロローサをずっとずっと進んでみると、そこにはゴルゴダの丘ではなく、ディズニーランドがあるんです。


ヘロデ・アンティパスが好きそうじゃないですか。


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