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執筆者の写真デボラ・デラックス

受胎告知教会part2

耐えて咲け!巨大教会&シクラメン

※wikipedia「受胎告知教会」より引用。 華の聖母子像写真、adriatikus氏による撮影。


さあ、思い切って中に入るぞ!とドアノブに手をかけると、これまたドアが全力で主張してて、地味に削られます。イエスの生涯をレリーフにしてるんです。馬小屋で生まれる所から十字架にかけられるまで、ばっちりです。


ちなみに、写真には写っていませんが、ドアの向かって左側には、イエス誕生前の旧約聖書時代の登場人物が書かれています。右側にはイエスが十字架の死を迎えた後の新約聖書時代のペテロやパウロといった使徒が書かれており、イエスを旧約の時代と新約の時代を結ぶ存在、としているとのこと。


わ、わかりました、わかりました、で、ございます…。


中は二階建てになっています。礼拝堂は二階にあり、世界各国(!!)から寄贈されたモザイク画が飾られています。日本からは、長谷川路可画伯作の有名な「華の聖母子像」です。この聖母子像、マリアの服には真珠が使われているとかで、これまた主張してます。


世界各国からモザイク画集めたのはいいですが、やはり大きさや場所にグレードがあります。あまり目立たない場所や屋外に飾ってあったり、大きさもこの半分位だったりするものも。それに比べてこの「華の聖母子像」は場所は屋内の目立つ場所で、大きさも最大サイズです!(相当、張り込んだようですよ…)


一階の、半地下みたいになっている所にお告げの洞窟があります。ここで、まさしく受胎告知が行われたとされています。まあ、本当にここがまさしくその現場かどうかはわかりません。全体的に主張が激しすぎるこの教会に於いて、ここはなんだかちゃっちくて、ハリボテ感があって、癒されます♡

でも、だからと言って、1969年にこの教会が建てられた際に、テキトーに「ここな」と決めた訳ではないんです。さあここから、受胎告知教会の苦節1600年の歴史を語りますよ。


この教会、もともとは427年ビザンチン時代に、「コノン」という坊さんによって作られたと言われています。彼の名前はお告げの洞窟のそばにあるモザイクに記されています。このころから一応お告げの洞窟として認識はされていたみたいです。


638年にイスラム教徒の支配下に置かれると、教会は少しずつ荒廃し、11世紀に十字軍が来た時にには見る影も無くなっていたとか。


そこで、十字軍の時代にガリラヤ公タンクレードがかなり豪勢な教会を作りました。でも、気合入れ過ぎたのか完成には至らず…。十字軍の時代が終わった1260年、教会はイスラムのマムルーク朝によって破壊されてしまいました。


とはいえ、今でもこの十字軍時代の教会の遺構は残っていて、現在の教会もその上に建てられています!


その間、フランシスコ会がせめて…と、教会の遺構のそばに定住を試みますが、マムルーク朝の支配下では当然叶わず…。それでも長々と粘りに粘って、具体的には360年粘って、1620年に何とか!入植を許され、修道院を作ります。


その後もフランシスコ会は100年粘りに粘り、1730年に入ると教会の再建を許されます。でも、与えられた期間はたったの6カ月。このエリアは、当時はオスマン帝国の支配下にありました。俺らがメッカ巡礼に行っている間に済ませろやと言われたそうです(;^_^A


できた教会は当然大層簡素なものでしたが、1877年に修復&拡張されます。そして1955年から現在のデカい教会の建設が始まり、1967年、晴れて完成したのです!


受胎告知教会のこのデカさ、主張の強さ、やったった感、そして世界各地から聖母子像を集めるというやることの派手さ…。イスラム教徒との長い闘争の歴史がその背後に隠れていると思えば、分かる気もします。


そうそう、この教会のすぐそばでローマ時代、丁度イエス・キリストが生きていた当時の家が発掘されました。2009年のことです。二つの部屋と中庭、水槽というささやかな家です。ナザレでは古代ユダヤ人の墓はそこそこあるらしいですが、住居跡ってのはお初だそうです。まあ、お宝ですね。

そのそばに、シクラメンの花。日本で売られているシクラメンの原種だそうです。寒い冬に耐えて咲くこの可憐な花、個人的にはマリアのイメージに近いような気がするのですが、如何なもんでしょうか。


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