top of page
執筆者の写真デボラ・デラックス

最後の晩餐の部屋

花文字にプレキリスト教かき消され…

新約聖書のクライマックスともいえる最後の晩餐のシーン、その現場!となればテンション上がるのが普通ですが、私個人的にはふーん、、、みたいな。


だって、明らか偽物ですもんねえ。ダヴィデの墓の上の階にあるってだけでももうもってのほかなんですが、ゴシック建築の特徴を備えたこのお部屋、素人目に見ても、うーん、これ、十字軍時代の奴かなあ、って思いますもん。で、ほんとに十字軍時代の物なんですけどね。


そして何より、なんだかとっても、殺風景…!


最後の晩餐ってコレでしょ、コレ(すりこみ)!

※wikipedia「最後の晩餐(レオナルド)」より引用。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%99%A9%E9%A4%90_(%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89)


何故十字軍時代に作られた部屋が「最後の晩餐の部屋」として崇め奉られているかっていうと、まあ確かに、最後の晩餐はこの辺で行われたっぽいから、なんですね。


最後の晩餐の部屋があるシオンの丘近辺は当時の高級住宅地。庶民が住む「下の町」に対して「上の町」と呼ばれてました。大祭司カヤパの邸宅跡と言われる鶏鳴教会もありますしね。


マルコによる福音書には、最後の晩餐は「二階の広間」で行われた、とあります。二階建ての家、当時はお金持ちしか建てられませんでした。ですので、「二階の広間」は十中八九アップタウンたるシオンの丘にあったのではないかと。


そしてこの部屋、恐らくお金持ちのボンだったマルコ、福音書の作者の彼ですね、の、母君の部屋では無かったかと言われています。そして、どうもイエスの十字架の死の後、使徒達はここをアジトにしていたようなんですね。


何故そのような事が言われるかというと、このマルコの母君の部屋、最後の晩餐以外にも使われまくっているんです。


・イエス、弟子たちの足を洗う。

・イエス復活後、弟子たちの前に現れて釘の跡を見せた。

・ペンテコステ。弟子たちに精霊が下って教会が誕生した。

・裏切者ユダの後釜としてマティアが選出された。

・投獄されたペテロが天使によって助けられた後、最初に訪れた。


これらのことが、この最後の晩餐の部屋で行われたみたいです。


聖書のハイライトともいえるこれらの事がなされたなんて最後の晩餐の部屋すげえ!と、言いたい所ですが、正直な感想言わせてもらうと、これだけの由来があるのにこれだけオーラのカケラもない史跡ってすげえ!って感じです。


でも勿論、十字軍が建てた寺の残骸をテキトーに最後の晩餐の部屋としてアサインした訳ではありません。理由は、ちゃんとあるんです。


キリスト教、という宗教はイエスの復活の後にすちゃっと今の形に出来上がった訳では当然、ありません。使徒言行録にある通り、ペテロやヤコブが率いていた頃の、エルサレムで信仰されていたキリスト教はまだユダヤ教と混然一体となっているものでした。


ユダヤ教の戒律、例えば割礼なんてのも守られてましたし、教会だってまだ教会ではなくシナゴークって呼ばれてましたし。


パウロを中心とした異邦人伝道が実を結んでキリスト教のメインストリームになるにつれ、ユダヤ教の痕跡はどんどん消えていきましたけど。


で、この最後の晩餐の部屋(もとい、ダヴィデの墓)、1948年に行われた発掘調査によると、そのパウロ以前のユダヤ人キリスト教徒のシナゴーグの跡地なんだそうで。


何故ユダヤ教ではなく正しく「キリスト教」のシナゴーグだと判断できたかというと。


一つ目はイエスを称えるギリシャ語の文言が書かれた漆喰の欠片が見つかったことです。もう一つは、シナゴーグには壁を凹状にえぐったニッチというものがあるのですが、それがゴルゴダの丘、要は聖墳墓教会の方を向いてたんですよね。


ユダヤ教の伝統に従えば、神殿の丘の方を向いて無ければいけないんですけどね。


ビザンチン時代の教会でもかなり珍しいのに、ローマ時代の、まだキリスト教が確立したとも言えない頃の、ユダヤ人キリスト教徒の集会所の跡地が見つかった…これは確かに相当レアなお宝発掘と言えますよね。


で、コレ、どのタイミングで建てられたかというと。


紀元70年、ユダヤ戦争でエルサレムの町はギダギダに破壊されてしまいます。ユダヤ人キリスト教徒は一時ヨルダン川東岸のペラという町に避難しますが、やがてエルサレムに戻ってきて、イエスキリストの思い出のこの土地にシナゴーグを再建したのではないか…と言われています。


その後、ビザンチン時代にローマ皇帝テオドシウス1世により大幅に改築され、「聖シオン教会」という大きな教会に生まれ変わりますが、その後イスラム勢力に破壊されてしまいます。


十字軍により聖シオン教会の跡地が発見され、再度教会が建立されるも、またもやイスラム勢力に奪われ、ここはモスクとして使われることになります。


花文字が書かれたステンドグラスや、メッカの方向を示す「ミハブ」という印が今でも残ってますよ。こうしたイスラム教の痕跡がとてもきれいで、しかもとても目を引きます。観光スポットとしては救われるのですけど、キリスト教の聖地、と言われるとふーんって感じになるのかなあ。

閲覧数:136回0件のコメント

Comentários


bottom of page