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執筆者の写真デボラ・デラックス

ダヴィデの墓

主の家だ!偽の墓でもさあ行こう☆

イエスとダヴィデでは1000年の隔たりがあると言うのに!


この墓、最後の晩餐の部屋と全く同じ建物の中にあります。1Fがダヴィデの墓で2Fが最後の晩餐の部屋。キリスト教のハイライトの遺跡の真下にユダヤ教のハイライトの遺跡があるという…。


わかりますね。


このダヴィデの墓、当然!に・せ・も・の、です。それも、かなりテキトーな。あはは。

いや、ニセモノと言えども、単なるがらんどうのお部屋に過ぎない最後の晩餐の部屋と比べると、かなり現役の宗教施設って感じがしますよ。


入口にはでっかいメノラーが飾ってあるし。メノラーというのは、ユダヤ教の象徴である7枝の燭台のことですね。パンフなんかも、置いてますよ。



何より、数多くのユダヤ人が聖書だかタルムードだか読みながら、めちゃくちゃ熱心に祈ってます。これは流石に、写真には撮りかねました。ほんと、ガチでしたもん。


男性はもみあげ伸ばしてヘンなタキシード&シルクハットのいでたち、女性はスカーフで髪をしっかり覆ってロングスカート着用。明らかにユダヤ教は超正統派の皆さんです。超正統派ってのは、ユダヤ教徒の中でも最も保守的で、律法を今でもガチンコに守って暮らしている方々のことですね。


でも、正直何でそこまでココが?って感じがしてしまいます。


だって、ダヴィデの墓の場所って諸説あって、はっきりしないんです。ココが確かにソコって保証なんか何処にも無いし、そもそも最後の晩餐の部屋の下にあるって時点でココは明らかソレとは違うでしょ…超正統派の皆様、熱心な割には意外とイージーです。


ダヴィデの墓のイージーさは、そもそもそれが存在しているシオンの丘の由来のイージーさに起因しています。てかこのシオンの丘、動きすぎなんですって。


旧約聖書の記載によると、ダヴィデ王は彼が征服したシオンの丘に葬られた、そうです。で、現ダヴィデの墓は確かにシオンの丘にあるので、別に間違いじゃないようにも見えます。


ところが…


150年位前までは、現在シオンの丘と呼ばれている所がダヴィデが征服した土地だと思われていました。旧市街の南西にあるエリアで、緑色のマルが付いている所です。現ダヴィデの墓はココにあります。


でも、19世紀半ばに行われた各種発掘調査により、実はダヴィデが征服した土地は南西じゃなくて南東にあるってことが分かっちゃったんですよ(;^_^A ヒゼキヤの水道とかギボンの泉とかがある、現「ダヴィデの町」…赤いマルが付いている所です。

要は、聖書が指しているシオンの丘と、現在のシオンの丘は、別ものなんです。


まあ、3000年の時を超えた今となってはシオンの丘がどこだかわかんなくなっても仕方が無いように思うのですが…ひどいことにダヴィデ王の息子さんのソロモン王の時代にですら、シオンの丘は現神殿の丘…ソロモン王が建てた第一神殿のある辺りですね、その辺ってことになってたとかww


そんな感じですから、ダヴィデ王の時代から下って1000年後のイエスの時代には既に、旧市街の南西にある現シオンの丘がダヴィデが征服した町だ、という勘違いががっつりはびこってたようです。


ダヴィデ王が征服した旧市街の南東エリア、南西エリアに比べると土地が低くて狭いんですよねー。対して南西エリアは、お金持ちが住んでるアッパータウンでした。だから、ダヴィデ王が征服したのは当然ここでしょ、みたいな。


ダヴィデの墓自体も、動き回ってますしね。あ、別にダヴィデの骨、仏舎利みたいにばらまかれてる訳じゃないですが、記録上いろんな事が言われているんです。


バビロン捕囚の100年後、紀元前450年位に書かれたネヘミヤ記によると、ダヴィデの墓は現在ダヴィデの町がある旧市街南東エリアにあったとされています。この頃の記録は、まあ大体正解に近いですわね。


ですが、時代は下って紀元1世紀、フラウィウス・ヨセフスのユダヤ戦記によると、ダヴィデの墓は旧市街の南西、現シオンの丘にあるとされてます。


さらにはさらには、紀元4世紀ごろには、ダヴィデ王はベツレヘムに葬られた、なんて都市伝説もございました。


超正統派の皆様、ふわっとしたとこで祈ってんなあと呆れる次第ですが、実はずーっと後の時代、このダヴィデの墓はちょっと切ないエピソードの舞台になったんです。それを考えると、まあ、分かるかなあ…と。


1948~1967年の間、中東戦争の時代、旧市街はヨルダンにより支配されることになりました。イスラエル人、もといユダヤ教徒は旧市街にも神殿の丘にも入れなくなります。


その際、イスラエルの宗教省はせめて…ということで、このとーっても由緒正しいダヴィデの墓をユダヤ教の聖地としたんです。


ユダヤ教徒達は、このダヴィデの墓で自分達のルーツである神殿の丘を偲び、精一杯祈りを捧げました。観光客向けのパンフレットに、都上りの歌の一部が記載されています。


″主の家に行こう、と人々が言ったときわたしはうれしかった。

エルサレムよ、あなたの城門の中にわたしたちの足は立っている。

エルサレム、都として建てられた町。

そこに、すべては結び合い、そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。

主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。

そこにこそ、裁きの王座が、ダビデの家の王座が据えられている。

エルサレムの平和を求めよう。

「あなたを愛する人々に平安があるように。あなたの城壁のうちに平和があるように。

あなたの城郭のうちに平安があるように。」

わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。

「あなたのうちに 平和があるように。」

わたしは願おう、わたしたちの神、主の家のために。

「あなたに幸いがあるように。」″

旧約聖書 新共同訳 詩編 122章


古代史の文脈では超絶インチキなダヴィデの墓も、現代史の文脈で見るとある種の真実を含んだ史跡では、あります。


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