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執筆者の写真デボラ・デラックス

【コラム】ペテロについて思うこと

雲の下…彼方の君を、愛してる

※wikipedia「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ」より引用。


イスラエル旅行を通して、イエスの次にお会いする機会が多かったのが12使徒のリーダー、ペテロですね。


カペナウムしかり、鶏鳴教会しかり、ペテロの召命教会しかり、、、最後の晩餐の部屋も彼に縁があるかな?


でも彼、初代教皇と言われている割には、なんか影薄くないですか?てか、説教でも余り良く言われることが無い…私が過去に通った教会だけでしょうか。


んで、持ち上げられるのは大概パウロです。


Youtubeでイスラエル在住のユダヤ人がキリスト教をどう思うか、なんてインタビューしている動画をめっけまして。そのなかで、見た目的にそこそこ保守的なユダヤ教徒だなと思える人が、「キリスト教の実際の開祖はパウロだ」とサクッといなしていました(7:25辺り)。



良く見てんなあ、と思って笑ってしまいましたが。


まあ、個人的にはこの彼の意見に賛成ですね。キリスト教がパウロ教だとは思わないですが、キリスト教を確立したのはパウロだろうな、と思います。


使徒言行録によると、エルサレム、要はユダヤ教徒向けの伝道を担当したのはペテロで、パウロは異邦人伝道の中心人物ですよね。


ペテロもパウロもユダヤ教の律法ずぶずぶの環境で生まれ育った人です。でも、パウロは律法による救いを否定し、「イエスの十字架による救い」を前面に出す、というか、それだけを絶対化します。


生まれ育った環境の中で当たり前のように受け入れてきた価値観を相対化するのも、それと真っ向対立する新しい価値観のエッセンスを抽出するのも、加えてそれを誰にでも…律法の外側にいる異邦人が理解しうる教義に汎用化していくのも…凄く、難しいことです。


まあ、なんというか、こうしたことはエリートの仕事ですね。


パウロ氏、いいお家で高い教育を受けて育ったんで、何分賢かったんでしょうね。マジMENSAレベルでしょうね。賢さに加えて、牢にぶち込まれた挙句テント職人にまで落ちぶれても信仰を守ったんですから、いやはや、相当な人です。


彼に比べると、ペテロは相当中途半端な感じがします。イエス存命中もしょっちゅう怒られるわ、イエスを裏切るわ、律法に引きずられてユダヤ教徒と日和るわ…加えて伝道の成果という意味でもパウロに比べると相当見劣りしますし。


まあ、率直に言うとパウロ程の仕事はしてないですよ、彼。


イエスに対して「よっ!生ける神の子キリスト」って言ったってだけで、なんでペテロなんて源氏名賜ってんねん初代教皇やねんこのゴマすり野郎って感じで、説教でも余り良く言われないんですかね。


パウロがキリスト教のファウンダーなら、ペテロは…そうですね、キリスト教のアイドル(大分間を空けてマリアに次ぐ…ジジイですから)でしょうか。ダメダメな所が前面に出る分、自分を重ねやすい、身近に感じるってのはあるかも知れないです。


でも、、、身近で誰にでも手が届くように見えるアイドルが本当に身近な存在かって言うと、話は別ですよね。彼女ら、なんだかんだいって実際はセレブやエリートと結婚するじゃないですか…「われわれ」ではなく。手が届く感を漂わせた芸風ってだけで、実際は雲上人ですよね。


ペテロ見てると、遠藤周作の「沈黙」に出てくるキチジローを思い出しますね。「沈黙」は、言わずと知れた江戸時代初期の長崎におけるキリスト教迫害の歴史を舞台にした小説です。


これこれー(この表紙絵は傑作すぎてこれから先ずっと変わることはないんだろうな(^^;))。

キチジローは小心者&お調子者、加えて貧しい出自で当然賢くはない=信仰に対する論理的バックボーンなんて一切無いキャラとして書かれています。ペテロの劣化版って感じですw


当然踏み絵なんて踏みまくりです。ガッシガシです。役人に脅されちゃあ、あっさりフットスタンプ。


まあ、当時でもかっこよく殉教した向きはレアもんで、実際は殆どのクリスチャンがこんな感じだったんだろうな、と思いますけど…じゃあ、彼らに信仰が無かったか、というと?


長崎には生き残ったクリスチャン達によって、明治時代までしっかりキリスト教が引き継がれてました。神父もいない状況で、です。


もちろん、教義的にはカトリックとはかけ離れたものになっていた、というのは一通り突っ込まれている通りです。


「沈黙」の中のキチジローも、密かに隠れクリスチャンとして信仰を守り続けます。「俺は弱か」と言って自分を責め続けますが、それでもイエスを追い求めることを止められないんです。


なんででしょうね?


正直、キチジロー的には信じた所でコミュニティから零れ落ちるだけのイエスなんて、踏み絵踏んだら心機一転速攻捨ててOKだったと思うんですよ。多分、信仰なんて熱病みたいなもんとしてすっかり忘れて暮らした元クリスチャンは多かった筈。踏み絵踏んだって足なんか痛まなかったでしょうね。


でも、足の痛みがずっと癒えない向きも、いたんですねー。


これは、普通に考えてそうそう簡単にできることでは無いです。イエスを信じた所で直接的には何のバックも無いのですから。


人は信仰によって救われた、神に愛されている、という実感があったとしても、目に見える人と人とのキズナや人の手で作った制度・秩序にどうしても目が行くもんです。それらは不完全かつ相対的ながらも、直接的に自分を守ってくれるものですから。


ペテロは、キリスト教を「理解している」という意味でも、「ブレない」という意味でも、「結果を出した」という意味でもパウロの後塵を拝しまくっています。でも彼は、キャッチの絵にあるように逆さ十字に吊るされて殉教するまで、信じた所で直接的には何の益もないイエスを信じ、愛し続けました。


聖地イスラエルには、いろんな宗派のクリスチャンが集まります。カトリック、東方正教会、アルメニア使徒教会、コプト国教会、プロテスタント…同じキリスト教徒であっても、教義は当然違います。


彼らは皆、お互いがお互いにとって異端です。言い方を変えれば「誤った」信仰を持っているということになります。


正しい信仰は何か、を追求し、保持し、伝えていくことはすごくすごく大切だと思います。そうした努力の無い所には、カルトや安易な原理主義がはびこってしまうから。一神教だったら、尚更です。


でも、そうした教義の違いを超えたところに残る、クリスチャンとしての最大公約数って何かなあ…と考えると、何となくペテロは気になってしまう存在では、あるのです。

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